堀川城合戦

カテゴリー │徳川家康

今回は徳川家康の黒歴史。堀川城合戦について
1.堀川城築城
永正年間(1510年頃) 今川氏親(遠江国守護)が斯波氏の井伊衆と引間衆を分断するため、刑部城と出城(堀川城)を築城
2.第一次堀川城合戦
・永禄3年5月19日(1560.6.12)、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれたため、今川氏支配の遠江に動揺が!
・今川氏の弱体化で武田信玄が駿府への進出を狙う。家康は三河を平定、遠江へ領土拡大を目指す
・永禄11年(1568)12月6日:武田信玄からの密書『駿河侵攻』⇒酒井忠次「本坂越(姫街道)」を調査したが危険を認識
・12月12日:菅沼定盈(野田城主)を通して、菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時(井伊谷3人衆)を寝返りさせ、13日遠江侵攻に成功
・12月14日:菅沼隊が井伊谷城、刑部城を落城
  日比沢城(後藤氏)、佐久城(浜名氏)が家康の軍門に降る。これを知り堀川城主新田喜斎(瀬戸方久)が城から逃亡?
3.家康ピンチ
・永禄12年(1569)3月12日、家康は掛川城攻めを一時中断して、岡崎に帰るとき気賀を通過。
・このとき気賀郷は「井伊谷3人衆」の所領になっていると勘違いし、17騎(当代記)のみで堀川城を通過(松平記は7騎)。
・堀川城の城兵は17騎を「雑兵」と思い込み、家康を討ち取る最大のチャンスを逃している。
4.第二次堀川城合戦
・永禄12年(1569):井伊谷3人衆により遠江侵攻を果たしたが、気賀周辺では地侍による反家康の動きも活発に。
・3月27日:徳川方(3000人)vs堀川城側(籠城2000人)
・家康は体制を立て直し、干潮時を待って堀川城を徹底的に攻め、立て籠もった城兵、庶民(百姓)を全滅させた。
・堀川城は落城し、1000人を殺害、残りの1000人は城から逃亡したが、約半年間捜索を行い、見つけ出した700人を処刑して畷に並べた ⇒ 獄門畷 (『三河物語』から)
・殺害は108人の城兵(武士)のみ。700人を捕らえたが全員釈放とする古文書あり。「城中百八の首級を山田平右衛門に命じ、気賀にて獄門にさらさる」(『武徳編年集成』から)
・「城兵百八が首を討、其餘烏合の一揆七百人は寛仁の御沙汰にて悉く赦し給ふ」(『校正三河後風土記』から)
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