日本の名城

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三春城 三春町指定史跡 続日本100名城
三春城は永正元年(1504)に戦国大名田村義顕(初代征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫で田村氏23代当主)が築城し、隆顕⇒清顕と3代続いた。清顕の時代、近隣の佐竹氏、蘆名氏に対抗するために、一人娘の愛姫を伊達政宗に嫁がせた。天正14年(1586)に清顕が急死したため、正宗の仲裁により清顕の甥の宗顕が城主となり、正宗の南奥羽制覇を支えた。
その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉の奥羽仕置きにより、田村氏は改易され伊達領になる。しかし、天正19年には会津に入った蒲生氏郷の領地に組み入れられて、若松城の支城のひとつになった。この時、三春城は蒲生氏の重臣 田丸具直が城主を務め、本丸の周囲に大規模な石垣を築いて城と城下町の整備を行った。
関ヶ原合戦以降の江戸時代初期には、蒲生氏、加藤氏、松下氏が城主を務め、松下長綱が城主のとき、大名の居城にふさわしい瓦葺きの建物を建設して、3万石の城の権威を象徴する近世城郭になった。しかし、寛永21年(1644)に松下氏は改易され、翌年の正保2年(1645)に秋田氏が入城し、秋田俊季が五万5千石で三春城主となり、明治維新まで秋田氏11代の居城となった。
戊辰戦争では、三春藩は奥羽越列藩同盟に加わったが、新政府軍の攻撃を受ける直前に恭順し無血開城した。明治維新後は廃城となり、民間に払下げられ、公園として整備された。
現在では埋もれかけた石垣が三春城の面影を残すのみである。







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    日本三大桜 三春滝桜

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    三春滝桜




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    堀川城合戦

    カテゴリー │徳川家康

    今回は徳川家康の黒歴史。堀川城合戦について
    1.堀川城築城
    永正年間(1510年頃) 今川氏親(遠江国守護)が斯波氏の井伊衆と引間衆を分断するため、刑部城と出城(堀川城)を築城
    2.第一次堀川城合戦
    ・永禄3年5月19日(1560.6.12)、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれたため、今川氏支配の遠江に動揺が!
    ・今川氏の弱体化で武田信玄が駿府への進出を狙う。家康は三河を平定、遠江へ領土拡大を目指す
    ・永禄11年(1568)12月6日:武田信玄からの密書『駿河侵攻』⇒酒井忠次「本坂越(姫街道)」を調査したが危険を認識
    ・12月12日:菅沼定盈(野田城主)を通して、菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時(井伊谷3人衆)を寝返りさせ、13日遠江侵攻に成功
    ・12月14日:菅沼隊が井伊谷城、刑部城を落城
      日比沢城(後藤氏)、佐久城(浜名氏)が家康の軍門に降る。これを知り堀川城主新田喜斎(瀬戸方久)が城から逃亡?
    3.家康ピンチ
    ・永禄12年(1569)3月12日、家康は掛川城攻めを一時中断して、岡崎に帰るとき気賀を通過。
    ・このとき気賀郷は「井伊谷3人衆」の所領になっていると勘違いし、17騎(当代記)のみで堀川城を通過(松平記は7騎)。
    ・堀川城の城兵は17騎を「雑兵」と思い込み、家康を討ち取る最大のチャンスを逃している。
    4.第二次堀川城合戦
    ・永禄12年(1569):井伊谷3人衆により遠江侵攻を果たしたが、気賀周辺では地侍による反家康の動きも活発に。
    ・3月27日:徳川方(3000人)vs堀川城側(籠城2000人)
    ・家康は体制を立て直し、干潮時を待って堀川城を徹底的に攻め、立て籠もった城兵、庶民(百姓)を全滅させた。
    ・堀川城は落城し、1000人を殺害、残りの1000人は城から逃亡したが、約半年間捜索を行い、見つけ出した700人を処刑して畷に並べた ⇒ 獄門畷 (『三河物語』から)
    ・殺害は108人の城兵(武士)のみ。700人を捕らえたが全員釈放とする古文書あり。「城中百八の首級を山田平右衛門に命じ、気賀にて獄門にさらさる」(『武徳編年集成』から)
    ・「城兵百八が首を討、其餘烏合の一揆七百人は寛仁の御沙汰にて悉く赦し給ふ」(『校正三河後風土記』から)









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    浜松城登城

    カテゴリー │お城

    日本の名城200 第148番目の浜松城に行ってきました。
    浜松城は地元でもあり、何度か登城しています。御城印、名城スタンプは既に入手済み。
    浜松城は、元亀元年(1570年)に家康が当時の引間城の西の台地に築城し、17年間(29歳から45歳)過ごした城。当時は現在のような天守はありませんでした。
    豊臣政権下では、堀尾氏(吉晴、後の松江城主)が治め、天主(天守閣)を築城しましたが、江戸時代には、天守閣がなくなっていました。その時期は不明です。また、江戸時代には、歴代の城主(25人)から老中(5名)、京都所司代(2名)、大坂城代(2名)、寺社奉行(4名)に抜擢され、後に「出世城」と呼ばれるようになりました。
    当時の浜松城は梯郭式平山城で、その規模は東京ドーム6個分(サッカー場36面)といわれています。

    浜松城







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